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『加上発想論』でイメージと構想を膨らせましょう!

『加上発想論』でイメージと構想を膨らせましょう!
人間の歴史を振り返ると、人間は常に好奇心と冒険心を胸に秘めて、最終の形に革新を目指してきた軌跡が見て取れます。それは、文明の歩みを見れば一目瞭然です。 ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、そして黄河。この四つの大河に文明が誕生したのは必然的なことだと言えます。それは狩猟時代から農耕時代への『加上』が、自然の力をである、太陽、大地、水を必要としたからです、 そして、人類は自然の恩恵を受けて文明を開花し、やがて、コミュニケーションツールとして言葉、文字を生み出し、青銅器を初めとする金属器の開発から始まる科学技術の進化は、都市間、国家間、民族間、宗教間の戦争を機に、材料と機能競争の『加上』による武器開発へと繋がり、これを見ても理解できるように、戦争を後押ししたのはまさしく科学技術の『加上』のなせる業だったと言えます。

『加上』が支えた文明の歴史

このように栄えた文明が環境破壊や異民族の侵入、エネルギー危機によって衰退し滅亡しても、そこに誕生した科学知識や技術は周辺地域に受け継がれ、それらを『加上』した新たな文明を生み出すことになった。中東地域で誕生した文明は、その後、ギリシャ、ローマ文明に『加上』され、さらに西洋文明へと『加上』されることになった。

文明の進化は、想像力や創造力をもって『加上』を繰り返すことになる。つまり、前時代のインフラをベースにして、その上を出ること、上に加えること、『加上』することで新しい時代を創ってきた。

人類の社会文化的な進化に大きな影響を与えたのは言うまでもなく宗教である。特にユダヤ教、キリスト教が文明に与えた影響は極めて大きい。キリスト教誕生から中世まで、キリスト教は科学的な発展を妨害する方向に動いていたが、一部の目覚めた知識人の好奇心まで押さえ込む事はできなかった。

西欧において様々な科学技術上の発見が成されたのは、ユダヤ教やキリスト教による影響の他に、ギリシャ文明の合理的精神を受け継ぐ土壌があったからだ。ヨーロッパ社会における知的リーダーは、この世に起こる現象の中に、神の意志を発見しようとしていたのである。

『加上発想論』が推し進めた科学・技術

それが学問や科学技術上の多くの発見を見ることになり、科学に加えて、工業技術の『加上』を推進した。

狩猟、農耕の時代に次いで、火の利用がエネルギー源の開発に繋がり、工業化への道を歩むことになる。石炭の利用が鉄器の開発を生み、エネルギーとしての蒸気機関が発明されると、海上では蒸気船、陸上では蒸気機関車が動き出す。すると、従来の陸上交通路に加えて、海上交通路も帆船から蒸気船へと変わることで、人や物、情報の移動が、質的にも量的にも拡大すること繋がった。やがて、それは産業革命に繋がり、文明は飛躍的に発展することになった。

これまで何回か『加上』という言葉を使ってきましたが、その『加上』って、何なのでしょうか。これより、それを紐解いていきます。

加上とは何か?

日本に仏教が到来したのは、538年とも、552年とも言われていますが、実は、『加上』は仏教に関係があるのです。それは何かというと、仏教経典の変遷の歴史なのです。

皆さんも高校の歴史の時間で習ったと思いますが、南都6宗(倶舎、法相、律、華厳、三論、成実)、平安時代に入って、天台宗、真言宗が生まれ、それがやがて、鎌倉仏教に繋がって行くのですが、ここでは、仏教経典に的を絞ります。

明治20、30年代のことです。このころ仏教界で大きな話題になったことに、大乗仏教非仏説論がありました。これは、どういうことかというと、大乗仏教の経典は、釈迦の金口直節ではなく、釈迦の滅後、はるか後になって歴史的に発展した思想で、いわゆる結集されたものが経典として世の中に出てきたというものです。

富永仲基の大乗非仏説論

これは、海外から新しい学問が海外から輸入された際に、ヨーロッパの近代的な仏教史研究も導入され、その時に大乗非仏説論が大きく採り上げられたのです。

ところが、明治時代から遡ること150年前に、すでに独自の視点で大乗非仏説論を展開していた姿勢に学者がいたのです。その人こそが富永仲基でした。

江戸時代の中期、8代将軍吉宗の時代、西暦で言えば1700年代の前半のことです。大阪の懐徳堂で儒学の勉学に励んでいた富永仲基は、仏教経典の変遷に実証的批判的な考証を加え、大乗非仏説論を唱えたのです。

『加上』は上に出る発想の原点

富永仲基は、『出定後語』を著し、そこで大乗非仏説論の根拠となる、仏教研究の独自性―仏教教理の歴史的発達を示すことで、大乗非仏説論を展開しています。

富永仲基は、その中で儒教に対しても批判をしています。例えば、世子が(性に善あり悪あり)と説くのに対して、その上を出たものが、告子の(性に善なく不善なし)という説であり、この告子の上を出て新説を展開したのが孟子の性善説であり、さらに孟子の上を出たのが荀子の性悪説(人の性は悪なり、その善なるものは偽なり)であったと言っています。

このように、儒教の場での歴史的展開の過程の中で、それぞれが先行する学説の上を出ようとする結果が、新たななる説を打ち出すことになったと看破しています。つまり、このことから儒教には歴史的文脈があったことが考えられます。

富永仲基は、儒教で見せた同じような視点を仏教にも持ち込みました。ここから『加上』の考え方が本格的に出てくることになります。富永仲基は、その当時の古文献を考証し、思想の時間的な歩みを実証し、思想の歴史をつらぬく発達変遷には法則があり、その法則のことを、『加上』という言葉で呼んだのです。

 『加上』とは、「上に加える」という意味なのですが、富永仲基は、「上を出る」と呼んでいました。先の儒教の歴史の文脈からも理解できますが、「上に加える」、「上を出る」のは儒教だけでなく、富永仲基は、あらゆる思想の発達変遷は、すべてこの『加上』の過程を経ていると結論付けています。

『加上』の原点は、新説は前説の上を出る

そこで、富永仲基は、

  "おほよそ古より道をとき法をはじむるもの、必ずそのかこつけて祖とするところありて、我より先にたてたる者の上を出んとするが、その定まりたるならはしにて、後の人は皆これをしらずして迷ふことをなせり"

と言っています。

ここでの眼目は、ある一つの思想なり学説が主張提起される場合、それは必ず先行する既存の思想や学説を前提としている。つまり、その上を出て前説を乗り越え、いまだ存しなかった要素をその上に加えて新説を展開する、ということになります。

新説の成立は、前説の特異な粋とすべき点を取り出す「揀異(自己の主張が、必ず前に興った説から撰び取ること)」や、その劣った点を反駁し拒ける「貶異(自説を主張するために、過去の説を貶めることで達成する)」などによって、前説に『加上』してみずから張るところに生起する。

しかもその新説はまた、後続する、さらに新しい立場から受けとめられ、『加上』される結果、「一層層『加上』する者の説」が展開して来ることになる。こうして果てしなく『加上』が継起してやまないところに、思想学説の発達があり、歴史的な歩みがあると言っているのです。

『加上発想論』は多くの分野で・・・・・・

富永仲基のこのような考え方からすれば、特定の一つの思想にのみ超越的絶対的な権威を認めようとして、甲論乙駁を繰り返すのは愚であり迷である。むしろ問題は、『加上』の原則を手懸りに、諸説の新旧を分別整理して歴史的発展のあとをたどることが大事だと考えられます。

『出定後語』は、仏教における異部の諸説に、教の優劣ではなく歴史的な新旧の順序を実証しようとしています。今日的に言えば、意味論、歴史学、文化人類学など、人間科学の諸方法を先取りしていたと言っても過言ではありません。

これから具体的に観ていくと、釈迦一代の説教は、自筆の経典で伝えられたわけではない。多くの弟子に口授され、釈迦入滅後に、これらの仏説が迦葉や阿難などの弟子たちによって経典結集され、やがて経・律・論の三蔵が成立したと見られています。

経典は『加上』の所産

大乗経典の多くは、仏滅後五百年になると作製されました。その成立史は、まず、小乗二十部の「有」の立場に対して、その上をでて「空」を説くものが現れた。「大乗文殊の徒、般若を作って、空を以って宗と為す」。すなわち『般若経』の成立です。

ここで有と空の対立が起こり、これに『加上』して「不空実相を以って宗と為す」者が出た。『法華経』の「諸法実相」がこれである。『解深密教』も同じ傾向に属する。つまり、有でもなく空でもなく実相だというふうに、前説の上を出たわけです。そして、これを釈迦一代の教説にあてはめて説明したのです。

次に、法華の上を出たのが『華厳経』で、その中には諸法実相と般若波羅密の二語が出てくるので、『法華経』、『般若経』よりも後だと言うことを証明しています。そして次に上を出たのが、『大集経』、『涅槃経』、その次に『楞伽経』が上を出たとしています。

『加上』は論理の試み

富永仲基は、このようにしてインド古代の「外道」の時代から説き起こして、大乗諸経典の成立を「上を出る」「上に加える」という、『加上』の法則を以って説明し、大乗非仏説論を展開したのです。

 この論理的な試みは、本居宣長をはじめ、江戸期の国文学者に支持されただけでなく、開けて明治の時代、大いに脚光を浴びるようになったのです。

『加上』は発想法の原点

 「上を出る」「上に加える」という『加上』は、ひとり仏教史の中だけに見られるものではなく、我われを取り巻くあらゆるものに散見できる。例えば科学技術の場や教育、産業、ビジネス、環境、防災などあらゆる分野でその方法論が使われ、我われの発想を豊かにするのに、いかに重要な役割を果たすのかを検証してみることにいたします。