コトノバ

原子力発電問題とエネルギーの加上

原子力発電問題とエネルギーの加上
環境、エネルギー問題に大きく関係することであるが、原発問題の『加上』も考えてみたいと思います。 NHK市民大学叢書―物理化学の世界で、理論ぶり学者の中村誠太郎氏は、 現代文明では、食料、エネルギー、公害などが科学技術の切実な課題となっていると指摘した上で、科学技術は十分に人間の幸福に役立ち、副作用としての害がない、というみきわめがつくまでに、社会に出すのは控える必要がある。ハイゼンベルグ(西独の物理学者)は「原爆の可能性についてアメリカの物理学者が政治家につげたことは、人類の将来への底知れぬ影響を考えたらできないことだった」と述べている。さらに、原子力発電の可能性についても、廃棄物処理、その他の公害の処理の十分な見通しがつかないうちに、産業界に売り渡すことを急いだことも軽率のそしりを免れないであろう。政治の世界、産業の世界では本来、科学技術の新発見のいみはよくわからない。それだけに疑い深いはずである。それを説得して実行させた科学技術側の責任は大きい。こうした問題では、科学技術の側に社会や人間に対する長期の影響についての視野が要求されよう。 このように警鐘を鳴らしていました。

学者の提言の凄み

この本が出版されたのは昭和52年4月20日です。今を遡る40年近くも前のことです。何という先見性のある指摘でしょうか。文明の進歩は科学技術の恩恵に与るところが大きかったことは言うまでもありません。それだけに、その事実を知っている学者・科学者は、その責任の大きさをも考えるのは当然のことでしょう。

東日本大震災は地震だけでなく、津波による電源喪失などのアクシデントにより、東京電力福島原子力発電所で取り返しのつかない大事故が起きました。4年経っても復興・復旧は進まず、被災者の連綿として続いてきた郷土での生活はままならず、時間の経過は、必ずしも希望を呼び戻すものではなく、諦めの境地に追いやるようなものです。

その後の対応を見ていても、まるで他人事のような態度。安全に対する過信が生み出した人災と言ってもいい出来事です。

中村先生が言っているように、原子力の可能性について、十分な見通しがつかないうちに産業界に売り渡した学者の責任は一切問われていないし、それを受け入れた企業も、そして、政治も責任を負ってはいないのです。

『加上』は原子力も生み出しています

原発が止まっている間、火力発電で代替するに当たっても、化石燃料の輸入増大に対するコストアップは、自動的に生活者に転嫁されており、企業側の努力の姿勢は全く見えてこない。

それだけでなく、朝日新聞の記事によると、今度の事故の対策費は燃料費のみならず、それにオンして電気代や税金も投入されることになり、その金額たるや損害賠償、除染、その他個別の費用を積み上げると、なんと十一兆円になるとのことです。

これを東電は電気利用者に転嫁させ、国は税金を使うことになります。説明責任がある国は、このことを国民に丁寧に知らせるべきなのに、どう見ても、しているようには見られない。

電力というエネルギーは空気と同じように、これがなくして生活は覚束なくなっています。その源を水力発電。石炭・石油・ガスなどの化石燃料発電。そして、原子力に頼り、自然エネルギー源である、風力、地熱、太陽熱、波浪などの貢献度は微々たるものである。

参考までに、kWhでのコスト比較を見てみると、一般水力10.6円。原子力11.4円。石炭火力9.5円。太陽光発電30.1~45.8円。世界の風力発電9.0~10.5円。日本の風力発電(大規模発電)10.0円。小規模施設では18~24円と割高になっています。

自然エネルギーが導入されないのは、ただ単にコストの問題が必ずしもネックになっているようには思えない部分があります。

『加上』はエネルギーと密接につながっています

一方で、電力を生み出す水力発電所にはダムが必要であり、火力発電所も原子力発電所もそれを生み出す施設が必要になる。まさに、完全なる装置施設産業なのです。装置あるところに絶対的な安全性を保障できると言い切れるでしょうか?それは否です。しかしながら、最小限の被害に止めることを前提に、設置されることは当然のことであります。

そもそも、人間の活動の中で最も重要視したのは、自然界のエネルギーをどう手に入れるかだったはずです。実は、物理科学の『加上』もそこにありました。風力、水力、火力、そして、化石燃料による大量のエネルギーの確保と、エネルギーの転換を進めることで、利用の範囲が拡がり、社会の成長を促す要因になったのです。

電力とガスはその中心になり、特に電力は産業界・家庭生活のエネルギー源としての役割を果たしてきました。その電力を生み出す大本である、水力や火力が『加上』されて、ラザフォードが発見した原子核反応による原子力の利用が、核分裂の連鎖反応の可能性が発見されたことによって進み、1943年には、最初の原子炉が建設されて、本格的な原子力の道を歩むことになりました。

『加上』と原子力

わが国では、東海村に第一号が出来て以来、五十四基の原子力発電所がありましたが、事故以来現在では、ようやく九州電力川内原子力発電所が稼動し始めました。そして、再稼動に向けて電力各社と原子力規制委員会との間で、稼動条件をクリアするかどうか、丁々発止のやり取りが続けて行なわれている現状があります。

1950年代、わが国への原子炉導入に際しては、日本学術会議の中で喧々諤々の議論があったと聞いています。中でも、コールダーホール改良型発電炉の安全性、とくにその耐震性がやかましいほど問題になっており、原子力委員会の下に作られた原子炉地震対策小委員会が、耐震対策を講じない限り危険であるという結論を発表していました。そのため、世論がかなり沸騰し、原子力発電会社は訪問団を英国に送り出さねばならなかったのです。

このように、当時の学者は中村誠太郎氏と同様に積極的に物申しをしていたのです。新薬の承認や再生医療については、納得の行くまでの議論と、トコトンまでの安全性を確認するために、10年以上の歳月をかけて研究調査し、厚生労働省に承認されて、初めて臨床に使用すると言うのに、大事故を起こした原子力発電に関しては、問題点の解決を見ないうちに進めようとしているのです。

企業も学者も、現実の事故どう見て、これまでの安全に対する考え方や、技術的問題をどのように『加上』をしているのかどうか、甚だ疑問と言わざるを得ません。

一方の政府はどうだろうか。安倍政権は、内閣として、新たなエネルギー基本計画を閣議決定した。それによると、原子力発電ゼロは撤回し、原発を今まで通り主要な電源として、安全性が確認され次第、重要なベースロード電源と位置づけ再稼動するとして、実際に、川内原子力発電所が再稼働したのは先述した通りです。

『加上発想論』から見るエネルギー政策

自然エネルギー、化石燃料エネルギー、そして原子力エネルギーを加えてのベストミックスを考慮した上で、エネルギー政策を打ち出すと言っているが、具体的な数字を示しているわけではなく、原発回帰への態度を明確にしている。

政府として、福島原発事故以降のエネルギー政策は、誰もが考えるような常識的な判断の上に出る、『加上』する政策でなければならないはずなのに、現状は思惑が先に走り、元の木阿弥ではないが原発は残し、必ずしも、国民のことを最優先にした政策と思えないところがあります。

固定観念に縛られた、敷かれたレールを延長するのではなく、固定観念を打破する、新たなレールを敷くこと。福島県の被災者に想いを馳せて、安易な結論ではなく、是非、反省を込めて既存知の上を出る、『加上』するエネルギー政策を策定して欲しいと考えるのは、戦争を経験した人が、2度と戦争はしてはいけないと声高に叫ぶのと同じで、あのような事故は2度と起こしてはいけないと倍にも増して声高に叫ぶのは当然のことでしょう。

なぜなら、平穏無事な時には、エポックメイキングになるような技術は生まれないからです。今がそのタイミングなのです。エネルギー分野に職を得ている技術者は、今こそ、『加上』する新エネルギー開発のチャンスだと思って、新しい視点でチャレンジする気概を持って欲しいものです。

それだけでなく、本来であるならば、福島の事故を乗り越えて、原発依存のエネルギー政策の大転換の方向性を、国際的に示すチャンスだったのにもかかわらず、それを失ってしまったことは残念の一言で済むことではない問題です。

ところが、原子力規制委員会は、九州電力から鹿児島県の川内原子力発電所の一号機、二号機の再稼動に向けた安全審査の申請を受けていたが、事実上の合格決定し、再稼動が実現したのです

そして、2015年10月26日、四国電力の伊方原発の再稼働に同意することを、愛媛県知事が伝えた報道がありました。

ここで、もう一度、冒頭の中村誠太郎氏の言っていることを思い出してください。「原子力発電の可能性についても、廃棄物処理、その他の公害の処理の十分な見通しがつかないうちに、産業界に売り渡すことを急いだことも軽率のそしりを免れない」

この言葉の重みを改めて、反芻してみてはどうでしょうか。