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医学・薬学分野に見る『加上発想論』

医学・薬学分野に見る『加上発想論』
ノーベル賞の医学・生理学賞に、北里大学特別栄誉教授の大村智さんが選ばれました。日本人で医学・生理学賞の受賞は、利根川進氏、山中伸弥氏に次いで三人目です。受賞の理由は、寄生虫に対する新しい治療薬の発見でした。 その薬はオンコセルカ症(河川盲目賞)という感染症の特効薬で、アフリカや南米などの熱帯地方で流行しているこの病気には、予防法も治療法もなかったのですが、大村先生が開発したイベルメクチンの投与が、多くの子供たちに対して予防や治療に劇的な効果をもたらしました。 実は、それには伏線がありまして、それ以前にダニや寄生虫病の効く動物薬として、市場に導入されていたわけですが、動物に効果があるのならば、人間を悩ませているダニや寄生虫病にも効果があるのではと、安全性を確認するため、メルク社の臨床試験を経て、人間を対象にした抗生物質としてデビューしたのがイベルメクチンなのです。 その大村先生ですが、「人の真似をするな!真似をやったら、それを超えることはできない」と、常に言っているそうです。この言葉、これから縷々述べて行くことに大いに関係がありますので、ぜひ、覚えておいてください。 「人の真似をするな!真似をやったら、それを超えることはできない」という言葉には、好奇心と革新性を求める意味合いが含まれています。それはまさに『加上』の世界です。「上に加える」、「上に出る」という発想を、ものの見事に地で行くことで、新しい世界感を築き上げました。 それは、医学のこれまでの歴史の中にも見て取れます。その歴史の流れを医学史の中に見ることで、「上に加える」、つまり『加上』が連綿として続けられてきた足跡を見られるだけでなく、今後もそれを続けることの重要性を理解することができます。 そこで、医学史の中での『加上』の一端を紐解いてみることにいたします。

医学の歴史は『加上』の歴史

医学の歴史を考える場合、最初に思い浮かべるのはギリシャ時代の医師であるヒポクラテスです。 ヒポクラテスは医学の父、医聖と呼ばれ、科学的な態度で医学を発展させました。

それまでの医学は医学というよりは、迷信、呪術、宗教などの影響を受けていましたが、ヒポクラテスはものの見事にその世界観感を断ち切りました。

それだけでなく、人間の体液が、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液であることをあげ、これらのバランスが崩れることで病気になると考えたのです。

それに加えて、今でこそ私たちには自然治癒力が備わっていることを知っていますが、ヒポクラテスは、当時から自然治癒力に注目して、食事、空気、睡眠と適度な運動、そして休息の必要性を説いていたのです。

現在でも信奉され医療者の道徳律と言われている、ヒポクラテスの誓いはこの時に示されたものです。

① 第一に、患者さんの利益。

② 自殺や安楽死には加担しない。

③ 医療に際しては、患者さんの身分、貧富の差を考えない。

④ 患者さんの職業上の関係を利用しない。

⑤ 患者さんの秘密を守る。

⑥ 先生や同業者に礼を尽くす。

これらは何れも現代に通用するもので、それを今を遡る2000年前に言っていたのですから、驚きとしか言いようがありません。

ガレノスの解剖学・生理学が1000年も続く

このヒポクラテスを『加上』したのが、ローマ時代のガレノスです。

ガレノスは、トルコの古代都市ベルガモンで、修辞学、哲学、天文学、そして医学を学んでいました。彼はローマ皇帝に医者として仕え、350点以上の医学書を記していますが、ヒポクラテスの4つの体液理論を、彼の著作の中で体系化した理論として紹介しています。

ガレノスは、生きた豚などの解剖実験をしました。例えば、水分を多く摂ると尿量が増えるとか、麻痺を起こすために脊髄神経を切断したり、大脳を傷つけるとカラダの反対側に障害が起きたりするなど、実験的証明の方法を導入しています。

それ以降、彼の解剖学、生理学は主流となって、16世紀にヴェサリウスが記した「人体構造論」が出てくるまで、1000年以上にわたって医学界の理論を支配していました。

医学校の設立の『加上』

中世は医学的には停滞した時代で、キリスト教の修道院が、貧富の差をなくす人々を救うという、いわゆる、キリストの精神を体現すべく、病気の人を治療する病院的な役割を果たしていました。

それだけでなく、修道院は、医学知識を後世に伝えていくのに大きな役割を果たす一方で、この先出現する医学校の始まりに繋がっていく存在になっていたのです。

実際、11世紀に入って、南イタリアのサレルノに医学校ができました。ここではギリシャやローマの医学が教えられ、この先、大学が設立される先駆けになっています。

現に、12世紀になってパリ大学、ボローニャ大学に医学部が作られました。しかしながら、そこで教えられているカラキュラムは、時代が変わっても相変わらずヒポクラテスの精神であり、ガレノスの医学だったのです。 

ヴェサリウスがガレノスを『加上』

16世紀になって、ようやくガレノスが『加上』されることになる時が来たのです。そこに登場したのがヴェサリウスです。

ヴェサリウスは、近代解剖学の夜明けを作り出した人物で、幼い頃から動物の体に興味を持ち、実際に解剖していたそうです。

やがて、パリ大学の医学部に進学し、解剖学の講義を体験したのですが、当時は、ガレノスの解剖学を学ぶだけだったそうです。

ヴェサリウスは、後にパドヴァ大学の解剖学の教授に就任すると、ガレノスの解剖学の誤りを指摘し、写実的なイタリア絵画を採用して「人体構造論」を出版します。

これによって、西洋医学は次の時代へと続き、飛躍的に発展していくことになるのです。

ウイリアム・ハーヴェイがヴェサリウスを『加上』

それが現実的になるのは、ヴェサリウスを『加上』して、血液循環の発見に繋がって行くのです。

血液は心臓から送り出されて心臓に戻ってくることを、今では知らない人はいませんが、1628年当時は、ウイリアム・ハーヴェイが血液循環論を確立するまでは、ガレノスの説が信じられていたのです。

ですが、このことは、ヴェサリウスの解剖学とは矛盾する点が多かったので、ハーヴェイは心臓のポンプ作用で送り出された血液は、動脈を通って全身をめぐり、静脈を通って心臓に帰ってくることを示しました。

しかしながら、動脈と静脈がどのように繋がっているかまでは解明されていませんでした。これが明らかになるのは、次に『加上』される顕微鏡の発明を待たなければならなかったのです。

パラケルススは草根木皮を『加上』して化学薬品の発見

ルネサンス期のスイス人で医師であり、錬金術師でもあったパラケルススは、水銀、アヘン、砒素、銅、硫黄など鉱物から抽出する薬物の研究を行い、従来の草根木皮に代わって、新たに科学物質を病気の治療に採り入れた最初の人でした。

そのため、パラケルススは医化学の始祖と呼ばれています。彼の祖先は内科医でしたが、病気に対してはお祷りすることで治そうとしていた祈祷師だったらしいです。

一方の外科医は、信じられないでしょうが刃物を使う床屋さんだったそうです。そのため、外科医は医療者としては見られなかったとのことです。

近代外科学のアンブロアズ・パレの『加上』

そこに登場したのがフランス人医師で、近代外科学の父とも称されるアンブロアズ・パレでした。

パレも床屋医者ではありましたが、単なる床屋医者ではなく、軍医として銃創患者の治療に携わっていました。

正確な臨床経験のうえに立って、それこそ、次々と新しい治療法を『加上』し、人々の苦しみを軽減することに尽力していたそうです。

さまざまな手術法の開発や血管を縛ること(結紮という)による止血、骨折の際の副木による固定、脱臼の修復法等々、現代の医療では当たり前のように行われている治療法の基礎を開発、『加上』した一人でもあった。

これによって、外科学の地位は徐々に上がってきましたが、外科医が内科医と対等になるのには、まだ時間が必要で、19世紀まで待たなくてはならなかったのです。

顕微鏡の発見の『加上』

なお、この16世紀末に医学にとってなくてはならない光学機器が、オランダの眼鏡屋のヤンセン親子のよって作られました。顕微鏡です。

イタリアのマルチェロ・マルビーギは、この顕微鏡を使って、毛細血管の中を流れる血液を直接観察しました。これは、先程のハーヴェイの血液循環論を証明する『加上』に決定的な証拠をもたらしたのです。

このように、何世紀にもわたって医学の進歩は、『加上』することで、新しい分野を開いてきたのです。

一方で、細菌学の進展に『加上』はどのような影響をもたらしているかを見て行きましょう。

18世紀、不治の病と言われた病気に天然痘があります。

天然痘ウイルスの飛沫や接触で感染するもので、死亡率は30から40%とされ、ヨーロッパで大流行したのです。

細菌学はエドワード・ジェンナーからパスツールへ『加上』

これに挑戦したのが、イギリス人のエドワード・ジェンナーです。彼は、牛の病気である牛痘に1度でもかかると、2度と罹患しないことから免疫ができると考えたのです。

そこで、牛痘にかかった女性から膿を取り出して、今で言うワクチンを接種したところ、その子供は天然痘にはかからなかったことが発見されたのです。やがて、これがヨーロッパ中に広がることになり、天然痘患者は激減していくことになったのです。

時代が進み、ジェンナー種痘法が『加上』されます。それをしたのがパスツールです。パスツールは、微生物の自然発生説を、フラスコを使って実験し、そのようなことはあり得ないことを実証しました。

このことは、微生物学、細菌学の基礎を作り、その後の感染症克服に向けて、多大なる貢献をしているのです。

彼の貢献はそれだけでなく、酒石酸などについての旋光性の解明にはじまり、乳酸菌や酪酸菌の発見、牛乳、ワイン、ビールの腐敗を防いだ低温殺菌法の発明、蚕の伝染病に関する研究と防止策の開発、ジェンナーの種痘法を『加上』して、狂犬病ワクチン、ニワトリコレラワクチンを創始し、ワクチンによる予防接種という方法を確立していることをあげることが出来ます。

麻酔薬の『加上』

この間、ベッドサイト教育や臨床医学教育も進み、次の時代の幕開けを待つことになりました。

外科学の発達になくてはならなかったのが麻酔学の進歩です。患者さんを無痛状態にできれば、慎重に手術ができるのです。

それを実現したのがウイリアム・モートンで、実際の手術の場で、彼はエーテル麻酔を担当し、外科医による患者の顎にあった腫りゅうの手術は成功しました。その間、患者は眠ったままだった。

しかしながら、手術はうまく行っても、術後の管理が悪くて術後感染症のために亡くなる人が余りに多く、次に出てきたのが、それを『加上』して無菌手術の時代の到来です。

因みに、日本の華岡青洲はモートンの手術より40年以上も前に、全身麻酔での手術に成功している。

消毒法の『加上』

術後感染症で亡くなるのは、傷口から侵入してくる微生物が原因と知って、手術時の消毒は術後の感染症予防に繋がると、イギリスの外科医、ジョセフ・リスターが消毒法を開発しました。

彼は、多くの文献を漁った上で物質を探し回り、ゴミの消臭剤であった石炭酸に行き当たったのです。

実際に、これを布に浸して患者さんの傷口に使用したところ、化膿せずに完治した。これ以降、手術に関する場面で石炭酸が使われるようになり、麻酔法と並んで、外科手術の世界を一変させることになったのです。

病原体の発見の『加上』

皆さんもご存じの、ロベルト・コッホは近代細菌学の開祖とも父とも呼ばれていますが、彼の功績は、これまで細菌が伝染病の原因であるかどうかは明らかになっていませんでした。そのことを解決したのがコッホだったのです。

コッホは寒天培地、シャーレ、プレパラートを発明、細菌の培養に成功し、次々と炭疽病菌、コレラ菌、結核菌を発見しました。

彼はコッホの三原則を実験の理論として次のように掲げ、

(1) 特定の伝染病にかかった患者から特定の病原微生物が必ず発見され、

(2) その病原微生物が分離,同定され、

(3) 分離された微生物を純粋に培養したもので、もとの病気が再現できる、

これらが証明されれば、その病原微生物が本当にその病気の原因であるとしたのです。

因みに、病原体を発見した人物を参考までに記してみると、

 1876年 炭疽病菌   コッホ(独)

 1880年 腸チフス菌  エーベルト、ガフキー(独)

 1882年 結核菌    コッホ(独)

 1883年 ジフテリア菌 クレブス、レフレル(独)

 1884年 コレラ菌   コッホ(独)

 1884年 破傷風菌   ニコライアー(独)

 1884年 連鎖球菌   ローゼンバッハ(独)

 1886年 肺炎菌    フレンケル(独)

 1894年 ペスト菌   北里柴三郎、イエルサン(日、仏)

 1897年 赤痢菌    志賀 潔(日)

 1905年 梅毒     シャウディン、ホフマン(独)

が挙げられます。ほとんどがドイツ人ですが、日本人も二人いるのはまさに大村先生の先がけと言っていいのかもしれません。

外科学の『加上』

これまでの外科手術の進歩を妨げていた、麻酔法が開発され、無菌手術が可能になると、外科学は飛躍的に発展することになりました。

ウイーン大学の外科学の教授であるビルロートは、消化器外科の分野で、胃ガンの手術を実施。食道と腸をつなぐ術式を開発しています。これは、現在の外科学の教科書にも載るほどで、ビルロート法と言われています。

ビルロートは、胃切除だけでなく、卵巣膿腫の切除、食道切除などの手術も成功させています。その一方で、多くの外科医も育てています。医療器具の鉗子に名前がついている、コッヘルもその一人です。

X腺の発見の『加上』

このように内科的も外科的にも、人間の病気の治療の熟したタイミングに、その『加上』を実現するためにX腺が発見されることになったのです。そしてこれにより、X腺による診断法が生まれ、皮膚病治療などにも使われるようになった。

こうしてみてくると、医療の歴史はまさに感染症との闘いであるようです。ジェンナーの種痘、パスツールのワクチンの開発、コッホによる結核菌やコレラ菌の発見、リスターの消毒法など、これまでは感染症の予防に尽力をしてきたが、次の時点で問題になったのが、感染症に罹患した人の治療をどうするかでした。『加上』の視点が求められたのです。

化学療法の発見の『加上』

そこで出てきたのが化学療法です。サルバルサンは性感染症の一つである梅毒の薬で、医療の歴史の中で最初の合成化学薬品として世に出ました。これを成し遂げたのはパウル・エールリッヒで化学療法の創始者となった人物です。

また、彼は、免疫学にも大きい業績を残しています。抗原-抗体反応の特異性の説明に、病原体つまり抗原を免疫反応により除去する抗体が産生されるのは、白血球の表面に抗原の受け皿つまり受容体(レセプター)があり、これに抗原が結合すると、細胞が刺激されて抗体となるという側鎖説を唱えた。

このサルバルサンの発見は、やがてサルファ剤やペニシリンの発見に『加上』されることになるのです。

ペニシリンの発見の『加上』

イギリスの医師アレクサンダー・フレミングが青カビのはえた周囲のブドウ球菌が死滅していることに気がついて、青カビの濾過液から細菌を殺す作用のある物質を発見し、それをペニシリンと名づけました。

しかしながら、これを実用化させなければ多くの人々の命を救うことはできない。そのために彼は、アオカビの培養液からペニシリンだけを精製する研究を始めました。しかしこの作業は本来、化学者の専門分野であり細菌学者の彼にとっては非常に困難を極めました。

そして1940年。イギリスの病理学研究者、フローリーとチェインは非常に効果的なペニシリンの精製方法の開発に成功します。

それは、アオカビの培養液の入ったガラス瓶を氷点下の状態にし回転させるというものでした。こうすることで安定してペニシリンを精製することに成功し、注射薬が開発されたのです。

メンデルの遺伝学の『加上』

これより後、いよいよ遺伝学が台頭してくるわけですが、それの先駆けとなったのはオーストリアの修道士グレゴリー・メンデルでした。

エンドウ豆の交配実験を続け、メンデルの遺伝の法則を発表した。これが20世紀になって遺伝子という概念が登場する契機になり、DNAが遺伝子の本体であること、さらに、それの基本構造が明らかになると、新しい時代、遺伝技術を用いた医療への『加上』に繋がっていくことになるのです。

遺伝子の発見の『加上』

遺伝子は、当初はたんぱく質の一種だと思われていましたが、その本体は、DNA(デオキシ・リボ核酸)であると発見したのは、スイスの生化学者フリードリッヒ・ミーシャーです。

彼は、細胞のタンパク質を分析しようと考え、患者の包帯に付着した膿を試料に選びました。そのうち、酸にも溶けない安定な物質が見つかり、それが、細胞の核に存在していることを見出し、核の成分であるためヌクレインと命名、試しに元素分析をしてみると、リンを大量に含んでいることが分かったのです。

これは遺伝学の発展につながる大発見だった。その後、ドイツの生化学者アルブレヒト・コッセルは、この「ヌクレイン」に注目し、その分析によって、1892年にアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という四種類の塩基があることを確認し、この塩基と結合する五炭糖(リボース)という糖の存在も明らかにしました。

本当は、これから出てくるワトソンやクリックと同じように注目を浴びてもいい、ロックフェラー研究所のオズワルド・エイブリーは、肺炎球菌という細菌が無害の性質を有害なものに変える原因物質、つまり遺伝物質は何かについて研究していた。

そして1943年、その遺伝物質はタンパク質ではなく核酸、すなわち DNAであることを世界で初めて報告した。その後、遺伝子の本体であるDNAの構造を解明するために、多くの研究者が競い合うことになったわけです。

DNAの二重らせん構造は、まずモーリス・ウイルキンスがX線回析を使って、結晶にX線を照射し、感光版にDNAが円形で中央に二本の線が交差する形で写っていた。

これをジェームス・ワトソンが聞いて、フランシス・クリックと一緒に共同研究を開始、ウイルキンスの成果を基に、DNAの二重らせん構造を明らかにしたのです。

このように医学の歴史を振り返ると、まさに前説、前技術を『加上』していることが手に取るように分かります。

近代になると、電子工学、機械工学、情報工学、精密工学などの学際・業際を超えたところで、医用工学分野の研究が進み、生体への侵襲に優しい医療器具の開発が実現しています。

『加上』は、前説、前技術のみならず、知恵の結集として、多くの資源の利用・促進をすることで、新しい分野を誕生させているのです。そして、次に、再生医療へと続いて行くのです。

万能細胞界の『加上』

昨年1月に新しい万能細胞であるSTAP細胞(刺激惹起性多能性獲得)のニュースがりましたが、残念ながら、不正があったとされて論文は撤回され、振り出しに戻りましたが、もしこれが発表通りだとしたら、ES細胞を『加上』してiPS細胞。それを『加上』してSTAP細胞となった可能性がありました。

そもそも、生物学では細胞の初期化はあり得ないといわれていた。その世界が変わったのは、再生医療を目指すES細胞の発見からでした。これは、胚性幹細胞のことで、受精卵より発生が進んだ胚盤胞までの段階の初期胚の内部細胞を取り出し、3、4週間培養します。

しかしながら、人間の場合は、受精卵を材料として用いることで生命の萌芽を滅失してしまうために倫理上問題点があるとして、現実的には受け容れ難い技術になっています。

そこで、これを『加上』する形で登場したの、京都大学の山中伸弥教授が発見したiPS細胞(人口多能性幹細胞)である。これは、体の細胞、例えば皮膚細胞に3、4種類の遺伝子を加え、2、3週間培養します。ガン化など安全性に課題があるが、患者さん本人の細胞を使うため、オーダーメイド医療に向いているのです。 

ES細胞とiPS細胞の違いは、ES細胞は受精後6、7日目の胚盤胞から細胞を取り出し、それを培養することによって作製されます。一方、iPS細胞は採取に差し支えない体細胞を使って作ることができるので、受精卵を破壊する必要がなく、倫理的問題も回避されています。

また、ES細胞と違って、i.PS細胞は患者自身の細胞から作製することができ、分化した組織や臓器の細胞を移植した場合、拒絶反応が起こらないと考えられ、実際に、滲出型加齢黄斑変性に対する自家iPS細胞由来網膜色素上皮(RPE)シート移植の臨床研究が、患者さんに対して行われています。

このように万能細胞会の『加上』の世界は、細胞の初期化によって難病に医療の矛先が向き、治療の機会が生まれることが期待されています。

冒頭に戻って、大村先生の「人の真似をするな!真似をやったら、それを超えることはできない」という言葉を思い出してみてください。まさに、『加上発想論』の精神を沸々と感じさせる言葉ではないでしょうか。